備忘録:2019年12月30日

29日夜、ちょうど仕事が終わったくらいのタイミングで、東京に来ていた母親から電話があった。

犬を預けている医者から連絡があった、危ないかもしれないから急遽明日帰る、と。

最初に膵炎と言われてからもう3年ほど経っていて、その間ずっと具合がよくなったり悪くなったりを繰り返していた。だから今回もなんとか大丈夫だろうと思った。けれど両親の声色でそうではないことが分かった。

年末に実家に帰れない仕事に就いたことを後悔した。そんな状態の犬を置いて東京に来る両親を少しだけ恨めしく思った。日帰りでもなんとか会いに行けないかと思ったけれど実行に移せなかった。あまりに急で思考がぐちゃぐちゃになった。決断力のない自分を後になって恨んだ。結局次の日、30日の夕方に電話が来るまで何もしなかった。何をしていたのか思い出せない。本当に死んでしまうかもしれないと思ったり、なんだかんだで大丈夫だろうと思ったりを繰り返して、気を紛らわそうとスマホを見たりゲームをしたりしていたような気がする。

16時40分ころに電話があった。犬を家に連れて帰った母親からだった。ラインのビデオ通話機能で犬の顔を見た。息が荒くて画面越しにも弱っているのが分かった。それでも何とか回復するかと思って、年が明けたらすぐ帰ると話した。二度ほど犬の名前を呼んだ。電話を切ってから十数分後にまた電話がかかった。ごめん、どうしよう、呼吸止まっちゃった、と母親が泣きながら言った。嘘、と声が出た。画面越しにまた顔を見た。目は開いたままぴくりとも動かず、死んでしまったのが一目で分かった。眠っているよう、では決してなかった。糸が切れたような様子だった。また何度か犬の名前を呼んだ。息遣いも、呻き声も聞こえなかった。父親がペンライトで瞳孔を見て、それから時間を確認していた。やっぱりこの人は医者なんだな、と思った。こんな時に考えることではないが。

17時07分だった。

電話を切って、少しぼんやりしていた。それから急に、握りつぶされるような苦しさが湧いて出た。呻いて、少し泣いた。大泣きするかと思ったのに、涙はそれほど出なかった。

21時ころになって、何か食べなきゃと思った。食欲はまるで無かったけれど、ちゃんといつも通りの生活をしなければという強い義務感のようなものがなぜかあった。近所のカレー屋に入って、なるべくちゃんとしたものを食べようと思ってチーズナンと、あと何かカレーを頼んだ。食べるために口を動かしたら、気が緩んで一気に泣いた。涙が止まらなくなって、味なんか全然分からなかった。店内のインド人がこちらを全く気にかけないのがありがたかった。何か言われたらカレーが辛くて泣いたことにしよう、とかそんなどうでもいいことを脳味噌の冷えた部分で考えていた。

年が明けるのを心底嫌だと感じた。彼を置いて自分だけが先の時間を生きていくことを実感させられるようだった。彼の時間はこの2019年で止まってしまうのだ。そう感じてやりきれなくなった。

 

006

ろくな大人じゃないので美容院に行く時必ず遅刻します。

 

暑いですね。夏ですね。運動してるときとサウナ入ってるとき以外は汗かくのそんなに好きじゃないので夏もそんなに好きじゃないです。今くらいのまだ夏が手加減してる時期だと「暑いけど天気もいいし開放的な気分になれるし夏も悪くないな!」って感じでなんならちょっと夏楽しみになるくらいなんですけど、だいたいこの後の猛暑でもう夏が好きなんて二度と言わねえの気持ちになります。これを毎年やります。

まあでも最近ずっと事務所にこもって仕事してるので、開放的な気分になりたいというのは確かにありますね。海に行くとか、山に行くとか、プール行くとか、BBQやるとか……こう考えるとなんだか楽しみですね。夏、好きです。

しかし「夏っぽいこと」っていうと色々思いつくのに他の季節はそんなに思いつかないですね。春は花見、秋は紅葉狩り、冬はスキーとかでしょうか。なんか夏の方が楽しそうな感じしますね。水浴びしたり強い日差しを浴びたり、強い刺激のあるものが多いからそう感じるんでしょうか。僕は雪が好きなので冬好きですけど(隙自語)

 

美容院着いたので終わります。

話題に困ったときの定番デッキ、「季節の話」。

備忘録

仲のいい知人が亡くなって9ヶ月、愛犬が死んでから約半年が経った。それまでの25年、死というものに触れることはまるで無かったので、なんと言うか、激重イベントを唐突に、立て続けにぶち込まれたような感じで、とにかくショックが大きかった。彼らの死を乗り越えたかどうか定かではないけれど、精神的には少し成長したような気もする。(結果的にそうなっただけであって、全くもって嬉しいことではない。)

知人は病気で亡くなった。見た目はすっかり変わってしまっていたし、亡くなる前日に会いに行った時の病室は重く冷たい空気で満ちているような感じだった。けれど不思議なもので、葬式には何か憑き物が落ちたような、安堵したような空気があった。

愛犬も病気で亡くなったが、生きている時とさほど変わらない見た目だったので、触れた時の冷たさが際立った。こんなに脆い生き物だったかと思うような弱々しさだった。知人の遺体には触れなかったので、死を文字通り肌で感じたのはこれが初めてだった。知っているものに知らないものが入り込んだような、奇妙な感覚だった。彼の葬式はただひたすらに悲しかったが、同時に内からとめどなく沸き起こるような愛情もあった。家族だからだろうか。他人の葬式だと「自分なんかがそこまで悲しんでいいのか」と変な遠慮をしてしまうけれど、自分の家族だと躊躇いなく感情的になれるような、たぶんそんな理由だ。

重い病気で死ぬと最後の姿が嫌でも脳裏に焼き付く。かといって見た目が元気そうだとなんとなく諦めがつかないような気もする。残された側の受け止め方の問題なので、まあどっちがいいという話ではないけれど。

葬式なんていうただ悲しむだけのイベントをなぜやるのか、と前は思ったりもしたけれど、感情を吐き出し整理する場が公に用意されているというのは、わりに助かるものだなと今は思う。特に家族の葬式では。自分の身内が亡くなった者に対してどう思っていたのかを目にするのも、けっこう大事なことだ。と思う。骨を拾って、墓を見たら少し落ち着いたと父が言っていた。まさにその通りだ。

記憶について、見た目以外の記憶はそのうち忘れてしまうのかと思っていたけれど、犬のにおいや手触り、なかなか忘れないものだなと、ちょっと意外に思う。調べてみたら聴覚、視覚による記憶は薄れやすいらしい。確かに考えてみると見た目の記憶はなんとなく残っていて思い出しやすいだけで、細かく描写しようとするとできなかったりする。実際亡くなった知人の髪の色とか、あんまり覚えていない。案外いい加減だ。

動物が死ぬというのは、人が死ぬのとはまた違った悲しさがあるような気がする。何を考えているのか、(家族としてある程度分かっているつもりではあっても)実のところ殆ど分からない、ということがより一層の無力感を生む……みたいな。彼は僕達の家族で幸せだっただろうか。

葬式以降実家には帰っていないので、正直なところ実感がまだあまり無い。東京での暮らしは犬のいる生活とは切り離されているので、帰るなり飛びついてくる毛玉がいないこと、ご飯時に喧しく鳴く犬がいないこと、想像はできるものの現実味が無い。母は床を掃除する回数が減ったと言っていた。そういう生活の隙間に彼の不在を実感出来るのは少し羨ましいような気もするし、でも僕には耐えられないような気もする。

何かを失った時、よく「ぽっかりと穴があいたよう」と表現するがまさに言い得て妙だ。ずっとそんな気分だ。

005

マイナーぶりたいのでキリのいい数字ってあんま好きじゃないぜみたいな顔で生きてます。

 

休日は暇すぎて逆に休めないし仕事の日は終わらなくて休めないしで自粛期間なのになんか普段より疲れますね。嫌になりますね。まあ働きたくないなという話です。

なんかこの頃地震も多いしこの前は雷もひどかったしコロナもあるしで終末!って感じですよね。今でかい地震来たらほんとに日本終わるな〜って緊急地震速報聞くたび思います。JAPAN NO OWARI。まあでも最近晴れてる日多いからそんな感じでもないか。SUMMER NO HAJIMARIだ。

初夏の空気は良いですね。東京の夏は湿度が高くてあんまり好きじゃないですけど今くらいの季節はわりと好きです。気分だけでも開放的になれます。自粛とはいえ海くらいだったら行ってもいいんじゃないかと思いますけど駄目ですかね。塩で清められそうですし。普段は海行きませんけど。三年くらい海のそばに住んでますけどほとんど行かないですね。まあ海のそばって言っても湘南とか江ノ島とかみたいな感じでは全然無いんですけどね。ただ海が近いだけで。でも「海のそばに住んでる」だけ聞くとなんかかっこいい感じしますよね。今後も言い続けます。関係ないけど山かけそばはあるのに海かけそばって無いですね。海苔でもかけときましょうか。

 

脳みそ動かなくてごちゃごちゃしたブログになりましたね。まあいいか。

004

4という数字、バスケやってた頃の記憶で4番カッケェなと思う気持ちと縁起悪いからちょっと避けたいなという気持ちがいつもせめぎ合います。

 

いや〜〜〜暇ですね。暇です。引きこもり体質だし外出自粛なんて余裕だろと思ってましたけどこうも長いと流石に退屈です。というか平時も人と会わないだけで一人でサウナ行ったり温泉行ったり遠出したりはしてたのでそれができないのがなかなかストレスですね。意外と活動的だったんだな自分!

出勤しないといけないタイプの部署なので変わらず出勤してるんですが、これで毎日在宅勤務だと気が狂うんじゃないですかね。1ヶ月近く生身の人間と会話しないってどんな気分なんでしょう。でもなんかかっこいいので在宅勤務したいです。まあでもみんなオンラインで会話したりはしてるんでしょうね。流行り(?)のzoomとかがありますし。

最近新しいコンテンツに徐々についていけなくなってきてこれが進むと時代遅れ人間になってしまうのだなという気になっています。具体的にはTikTokくらいからちょっと追いつけてないです。これはいけない。タピオカブームはゴンチャ一回行ったのでクリアしたなと思ってるんですが今は何が流行りなんでしょうね。今はみんな出歩かないからアレですけど。

 

人と会話して〜

チャッピー

ごく個人的な内容ですが、読んでもらえるとちょっと嬉しいです。

 

2019年12月30日、実家で飼っていたヨークシャーテリアのチャッピーが息を引き取りました。

11歳と2ヵ月ほどで、まだ亡くなるには少し早い年齢だったと思います。

数年前から慢性膵炎に罹っており、体調が良くなったり悪くなったりを繰り返していましたが、29日に容態が急変し、そのまま逝ってしまいました。亡くなる直前、母親がビデオ通話で様子を見せてくれていましたが、荒い息遣いの後、糸が切れたようにぱたりと動きが止まってしまい、とても安らかな最期とは言えないような様子でした。

上京してから、特に仕事を初めてからは年に数日しか実家に帰ることができず、「これが最後になるのかもな」と考えることも少しはありましたが、まさかそれがこんなに早く来るとは思ってもみませんでした。思っていた以上に泣きましたし、正しく心に穴が空いたような感じです。

離れて暮らす以上、そばで看取れない可能性の方が高いのは分かっていましたが、それでも苦しい時はそばにいてやりたかったし、最後の最後まで彼に触れていたかったなと思います。

 

チャッピーは血筋もあってか見た目は綺麗で上品な感じなのに、中身は単純というか本能的というか、あんまり何も考えてなさそうな犬で(教育が悪い)、でもそういうところが僕は好きだったし、その無垢さにたくさん癒されていました。

毛並みや肉球の感触とか、においとか、そういうものはきっといつか忘れてしまうと思いますが、彼に貰ったあたたかさみたいなものは、ずっと忘れずに持っていたいなと思います。

 

僕の親バカ話を聞いてくれた人、写真や動画を見てくれた人、可愛いって言ってくれた人、皆さん本当にありがとうございました。何かの機会に写真の10倍可愛い実物の彼を見せたかったのに残念です。気が向いたらまた僕に色々話させてください。

 

今度実家の方で火葬をするので、そこで最後のお別れをしてきます。早めに立ち直れるように頑張ります。

 

年始早々悲しい話ですみません。

ありがとうございました。


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003

毎年、秋刀魚食べてえなあ~と思うころには旬が過ぎてたりします。シュンとします。

 

今日はイヤホンを忘れてしまい暇なのでブログを書きます。

12月です。これはもう冬です。このまえ新潟の越後湯沢に行ったんですけど山のほうは雪が積もっててとても良かったです。冬が好きというか雪がある時の空気が好きなんですよね。静かだし。死ぬ時は雪が降るところで死にたいと常々思います。向こうはスキー客が多かったように思いますがスキーがキライーな僕らは山頂へのロープウェイにすら近寄らず、その辺の温泉に入っては飯を食い入っては酒を飲みと言った感じでした。風呂に入るのは一日に三度までにしておいたほうがいいらしいですよ。脱衣所のポスターに書いてありました。

湯沢の温泉は単純温泉なので入りやすく柔らかいお湯です。硫黄泉のように独特なにおいもしないし色も透明なのでこれは銭湯だぞと言われればはあそうですかと信じるかもしれませんいやこれは失礼ですね。本当にいい温泉でした。長く浸かれるし。アルカリ性の温泉で肌がすべすべになるのは古い皮膚が溶けるからなんでしょうか?

毎日温泉に入りたいし毎日サウナに入りたいと強く思っています。すごい金持ちになったら家にサウナを作ろうと思います。サウナと水風呂で心拍数上げるやつやり過ぎると健康にはなりそうですけどなんか早死にしそうですよね。なんとなく。

 

キライーを言いたかっただけでスキーは普通に好きです。