備忘録

仲のいい知人が亡くなって9ヶ月、愛犬が死んでから約半年が経った。それまでの25年、死というものに触れることはまるで無かったので、なんと言うか、激重イベントを唐突に、立て続けにぶち込まれたような感じで、とにかくショックが大きかった。彼らの死を乗り越えたかどうか定かではないけれど、精神的には少し成長したような気もする。(結果的にそうなっただけであって、全くもって嬉しいことではない。)

知人は病気で亡くなった。見た目はすっかり変わってしまっていたし、亡くなる前日に会いに行った時の病室は重く冷たい空気で満ちているような感じだった。けれど不思議なもので、葬式には何か憑き物が落ちたような、安堵したような空気があった。

愛犬も病気で亡くなったが、生きている時とさほど変わらない見た目だったので、触れた時の冷たさが際立った。こんなに脆い生き物だったかと思うような弱々しさだった。知人の遺体には触れなかったので、死を文字通り肌で感じたのはこれが初めてだった。知っているものに知らないものが入り込んだような、奇妙な感覚だった。彼の葬式はただひたすらに悲しかったが、同時に内からとめどなく沸き起こるような愛情もあった。家族だからだろうか。他人の葬式だと「自分なんかがそこまで悲しんでいいのか」と変な遠慮をしてしまうけれど、自分の家族だと躊躇いなく感情的になれるような、たぶんそんな理由だ。

重い病気で死ぬと最後の姿が嫌でも脳裏に焼き付く。かといって見た目が元気そうだとなんとなく諦めがつかないような気もする。残された側の受け止め方の問題なので、まあどっちがいいという話ではないけれど。

葬式なんていうただ悲しむだけのイベントをなぜやるのか、と前は思ったりもしたけれど、感情を吐き出し整理する場が公に用意されているというのは、わりに助かるものだなと今は思う。特に家族の葬式では。自分の身内が亡くなった者に対してどう思っていたのかを目にするのも、けっこう大事なことだ。と思う。骨を拾って、墓を見たら少し落ち着いたと父が言っていた。まさにその通りだ。

記憶について、見た目以外の記憶はそのうち忘れてしまうのかと思っていたけれど、犬のにおいや手触り、なかなか忘れないものだなと、ちょっと意外に思う。調べてみたら聴覚、視覚による記憶は薄れやすいらしい。確かに考えてみると見た目の記憶はなんとなく残っていて思い出しやすいだけで、細かく描写しようとするとできなかったりする。実際亡くなった知人の髪の色とか、あんまり覚えていない。案外いい加減だ。

動物が死ぬというのは、人が死ぬのとはまた違った悲しさがあるような気がする。何を考えているのか、(家族としてある程度分かっているつもりではあっても)実のところ殆ど分からない、ということがより一層の無力感を生む……みたいな。彼は僕達の家族で幸せだっただろうか。

葬式以降実家には帰っていないので、正直なところ実感がまだあまり無い。東京での暮らしは犬のいる生活とは切り離されているので、帰るなり飛びついてくる毛玉がいないこと、ご飯時に喧しく鳴く犬がいないこと、想像はできるものの現実味が無い。母は床を掃除する回数が減ったと言っていた。そういう生活の隙間に彼の不在を実感出来るのは少し羨ましいような気もするし、でも僕には耐えられないような気もする。

何かを失った時、よく「ぽっかりと穴があいたよう」と表現するがまさに言い得て妙だ。ずっとそんな気分だ。